虫たちが息を呑むように黙っている。そのせいで静かな川の音が妙に響いている。あるいは虫たちは、その川の音から何か暗示のようなものを感じ取っているのかもしれない。人や獣の気配はないが、何かが潜んでいるような、陰鬱な騒がしさが漂っている。
しかし夜はまだ深く、夜明けはまだ遠い。闇が去るのは、まだずっと先のことだ。
木々の隙間から、黄色い光が瞬くように零れている。一台の軽トラックが、森の深くを目指して走っている。舗装されていない道を荒々しく、しかし黙々と進むその車は、まるで夜に生きる大きな獣のようだ。
闇に響いているのは、その一頭の足音だけだった。
やがて、もともと不確かだった山道は完全に途絶え、軽トラックは歩みを止めた。エンジンが切られると、辺りは静まり返り、真っ暗になった。僅かな月明かりも木々に遮られ、ここまでは届かない。
少しして、闇の中で何かが目覚めるようにごそごそと音を立てはじめた。軽トラックのドアが軋む音が聞こえ、何者かが降りてきた。そしてドアが閉じられる音がした。不完全な音だった。おそらく閉まり切っていない。車を降りた何者かは、ゆっくりとさらに森の奥へと進んでいった。枝や落ち葉を踏む音が、森の奥へと消えていった。
ライターの火が、闇の中に浮かび上がった。眩く、儚い明かりだった。
ライターを手にした男は、ずいぶんとくたびれた紺のパーカーと、だいぶ色が落ちたブルージーンズを着ていた。だらんと垂れた左手には、何か汚れた布が力なく握られていた。足元には、年老いた中型犬のような、古びた円柱型のスポーツバッグが横たわっている。布が薄くなり、繋ぎ目にはいくつか穴が開いている。大きないくつもの染みが、古い地図のような模様を描いている。履いているスニーカーは、元の色がわからないほどに泥で汚れていて、踵は膨らみきれなかったパンのように潰れていた。靴紐には細かな枝や落ち葉が絡まっていた。
彼はしばらく、ぼんやりとした瞳で、手の上の小さな火を見つめていた。顔には感情が浮かんでおらず、ただ虚ろな表情で立ち尽くしていた。
やがて男は表情を変えぬまま、左手に持っていた汚れた布を火にかざした。それはスウェットのシャツだった。赤黒い染みのようなもので酷く汚れているが、元の色はおそらく薄いグレーだ。火が完全に移ってから、男はそれを地面に抛った。
シャツが落ちた先には、細い枝が集められて、組まれていた。彼はしゃがみ込んで、シャツのまだ燃えていない場所にも火をつけだした。やがて火はシャツ全体へと広がっていった。それを見計らって、男は用意しておいた他の細い枝を火の上に重ねていった。火が細い枝に移って大きくなったところで、少し太い枝を加えた。そうやって少しずつ火を大きく、確かなものにさせていった。
周囲は、ここだけ木が生えておらず、少し開けていた。森の中にぽっかりと開いた小さな空間が、スポットライトに照らされたステージのように、闇の中に淡く浮かんでいた。
火が安定すると、男はスポーツバッグを漁り、また酷く汚れた布を取り出した。ほとんどのポケットのボタンが取れたミリタリーパンツだった。元の色はおそらくベージュ。彼はそれを広げて、炎の上に被せた。枝で突っついて、火が消えないように注意しながら、時間をかけて入念に燃やした。
そうやって彼は下着、タオル、軍手と順番に燃やして灰にしていった。どれもとてもくたびれていて、酷く汚れていた。そして最後に、空になったスポーツバッグも火にくべた。彼は何も言わず、ずっと虚ろな表情で、それらの作業を淡々と行っていた。
全てを燃やしたあと、彼は焚き火の横に腰かけて、ポケットからウイスキーが入った小さなビンを取り出して、それを飲みだした。そしてぼんやりと、静かに炎を眺めていた。
炎はひらひらと揺らめき立ちながら、時々はじけるような小さな音を立てて火の粉を飛ばしていた。なんだかそれは、物を燃やして灰にしてしまう力を持っているのに、不思議とか弱く、脆く、儚いもののように見えた。炎に合わせて周囲の影が揺れていた。男の影も揺れていた。灰色の煙が、夜の闇に溶けるように消えていった。
気が付くと男は座ったまま項垂れるように眠っていて、こくりこくりと小さく揺れていた。そして大きな揺れで体が倒れそうになって、鹿威しのように目を覚ました。体の隣には酒ビンが立ててあった。ガラスには揺れる炎が映っていた。ゆっくりと顔を上げると、まだそこには熱を持った赤い炎が残っていた。それほど長くは眠っていなかったようだ。
この時男は、炎を挟んで向かいに座る人影に気が付き、大きく目を見開いた。その目には初めて光のようなものが浮かんでいた。驚き。それが彼の瞳に現れた唯一の感情だった。人影をはっきりと捉え、彼はしばらく瞬きも、呼吸すらも忘れていた。
彼の目に映っていたのは、彼と同じ年齢くらいの男だった。瞳に映る男は、両膝を立てて座り、膝の上に置いた両腕を力なく前に垂らしていた。白のTシャツと黒のチノパンツを着て、磨かれていない黒い革靴を履いていた。顔には表情が全くなかった。完全な空虚だった。冷たく虚ろな目で、ただ炎を見つめていた。
男は何か異物でも飲み込むように大きくごくりと唾を呑み、慌てて口で息をした。左手で架空の汗を拭うように顔を擦った。額を擦り、目の周りを擦り、頬を擦り、顎を擦った。顔が歪むほど大きく強く。そしてもう一度右手で同じことを繰り返しながら、引きつったようなぎこちない笑みを浮かべて言った。その表情は、驚いているようでもあり、怯えているようでもあり、また、どこか少し安堵しているようでもあった。
「生きてたのか……」
それは話しかけるようでもあり、問いかけるようでもあった。彼は顔に当てた手を止めて、向かいに座る男の反応を待った。
しかしその言葉に、瞳に映る男は何の反応も示さなかった。変わらずずっと、虚ろな目で炎を見つめていた。男の声が聞こえたのか、聞こえていないのかもわからない。
そのまま、時間が止まったかのように、二人の男は身動きひとつ取らなかった。一人はただじっと、向かいに座る男を見つめて、何かを待っていた。ぎこちなく横に開かれた口は、何か次の言葉を探していた。しかしそれは見つかりそうにない。そして彼の瞳に映る、もう一人は、ずっと炎を見つめ続けていた。あるいは、何も見ていないのかもしれない。その奥行きのない瞳には、不思議なほど鮮明に炎が反射して映っていた。
二人の間で、炎だけが踠くように揺れていた。影が延びたり縮んだり、揺れたり、濃くなったりしていた。それ以外には、何も動きはなかった。炎を囲む小さな空間は、闇に囚われて静かにぽつりと浮かんでいた。沈みゆくのを待つ、漂流した船のように。
男ははっと目を覚ました。視界には暗闇だけが広がっていた。目を開いているのか閉じているのかも、彼には一瞬わからなかった。やがてそれが、木々に切り取られ、雲に覆われた、黒い空だと気が付いた。彼は仰向けで寝転がっていた。体を起こすと、焚き火はすでに消えていた。僅かな残り火もなかった。辺りは真っ暗で、音もなかった。森の中だというのに、生き物の鳴き声も聞こえなかった。
男が立ち上がろうと手をつくと、指先が何か冷たい物に触れた。彼は驚いて手を引っ込めたが、すぐにそれが、倒れて中身をほとんど吐き出した酒ビンだと理解した。そして立ち上がるのを諦めるようにやめて、ひとつ小さく溜息を吐いた。
そのまま、座ったまま、彼はずっと暗闇を見つめていた。あるいは、見ないように目蓋を閉じていたのかもしれない。
川の水は変わらず、静かに音を立てながら流れていた。流れる水は違うはずなのに、不思議と音に変化はない。あるいはそれは当然のことなのかもしれない。空も変わらず雲に覆われていて、月明かりはほとんど届いていない。そしてやはり虫たちは押し黙っている。暗示は暗示のままで、その真の意味も、もしくはそんなものが存在するのかも、何も明かされないでいる。夜明けの気配は、まだ感じられない。
弱い風でささやかに揺れる雑草の茂みの隙間から、中州に何か大きな塊が引っかかっているのが見える。泥にまみれたそれは、蛾の蛹のような形をしている。
やがて恐る恐る虫たちが鳴きはじめ、次第にその声は大きくなっていった。それに押しやられるように川の音が後退していった。雲はとてもゆっくりと、でも確かに流れていた。
しかし闇が去るのは、まだもう少し先のことだ。