「さようなら」
「まっ……」
「まって……」
ゆっくりと目蓋を開いた。ぼんやりとした視界に、一筋の光が見える。カーテンの僅かな隙間から零れるように入ってきた朝日が、目の前の枕元に落ちている。
ここはどこだろう?
なんて、おとぎ話のように、おかしいけれどはじめに思ったことは、本当にこの一言だった。やがて散らかっていた記憶が、目の前の風景と結びつきはじめた。
ここは、私の部屋。
そんな当然のことを思い出して、はっとした。なんだかずいぶんと久しぶりに帰ってきたような気がする。なんだかずいぶんと、遠くへいっていたような、そんな気がする。中央に楕円型のローテーブルがあり、木製のティッシュケースと折り畳み式のメイクアップミラーが乗っている。壁に寄せてあるテレビボードの上にテレビが置いてある。うっすらと埃が積もっている。少し潰れて床に転がるクッション、白いフロアマット、飽和状態のゴミ箱、本棚に並ぶ文庫本、壁に掛けられた先月のままのカレンダー、……。全てが、一切動かずに、ただ静かに佇んでいた。なんだか、記憶を元に精巧に再現した模型のように見える。何かしっくりとこない。
ここが、私の部屋。
何も変わりない、いつもの小さな部屋。
鼓動が激しく鳴っていた。なんだか気怠くて、上手く体に力が入らない。私はゆっくりと左腕の肘で体を起こしながら、右手で布団を押し退けた。
あれ? 目の周りが少し湿っている。
私、泣いている。
カーテンの隙間から入ってきた光の中を、小さな埃が舞っていた。
そうだ、何か、長い夢を見ていたんだ。色んなことがあった。色んな人がいた。忘れてはいけない、何かとても大切な夢を……。
そんな時、枕元に転がっていたスマートフォンが鳴った。午前7時にセットされたアラームだった。その音を聞いた瞬間、夢と現実の間に浮かんでいた意識が、全て体に引き戻された。目の前の自分の部屋にさっきまで抱いていた違和感は、きれいに、微塵もなく消えた。
今日は何曜日だっけ?
私はスマートフォンを手に取った。アラームを止めた。
月曜日。起きないと。
布団の外の空気はひんやりとしていた。瞬間的に身震いした。しかし躊躇っている暇はない。ベッドから降りて立ち上がり、カーテンを開けた。雲一つない快晴だった。きれい、と思った。薄い水色が広がる、この秋の空が、私は好きだった。
ベッドの脇に並んでいたスリッパを履いて、洗面所へ向かった。電気をつけて、口をゆすいだ。鏡を見ると、黒い髪の女性がいた。
私、こんな顔だったっけ?
いつも見ているはずの顔なのに、なんだか久しぶりに見たような気がした。鏡に映る私は、像というより、別の世界に生きる、もう一人の自分のように見えた。しかしいつまでも自分同士で見つめ合っているわけにはいかないので、私はヘアバンドを巻いて顔を洗うことにした。もう一人の私もそれに倣った。洗顔のあと、ドライヤーの風を当てながら、手櫛で簡単に髪型を整えた。もう少しで毛先が肩に届きそう、と思った。でもまだ切るほどでもない。
次に小さなキッチンに向かい、コンロの上にすでに乗っていたフライパンに薄く油を引いて、火をつけた。冷蔵庫から卵を一つ取り出して、割ってフライパンの上に落とした。少しの水を、カップの代わりに卵の殻を使って加えて、フライパンの蓋を閉めた。目玉焼きができる間に、食器棚からボール皿を出して、そこにグラノーラを注いだ。目玉焼きには塩と胡椒、グラノーラには牛乳をかけて食べた。いつもの朝食だ。食べながらテレビでも見ようかと思ったが、リモコンが手の届かない位置——テレビボードに置かれたスタンドの中——にあったので、諦めた。
部屋の中は、なんだかとても静かだった。耳を澄ますと忙しそうに車が走る通りの音が聞こえたが、それは部屋の外の世界の出来事で、ここはまだそんなざわめきに飲み込まれていない、小さな聖域のように思えた。
しかしゆっくりはしていられない。朝食を食べ終えて食器を流しに運んだあと、口をゆすいで歯を磨いた。パジャマからスーツに着替えて、テーブルに置いた鏡の前で化粧をした。もう鏡の中の私に違和感を覚えることはなかった。それは見慣れた私の顔だった。鏡の中の私は、ただの像に戻っていた。化粧をしている間、私はほとんど何も考えていなかった。頭の中にあるのは、時間のことだけだった。
8時15分。朝のルーティーンを終えて、カーテンを閉めて、カバンを片手に家を出た。
外は少し風があり、肌寒かった。コートを着てくるべきだっただろうかと思ったが、少し歩くと寒くはなくなった。空気は乾いていて、陽の光は柔らかだった。水色の空がコントラストになって、立ち並ぶビルが妙にくっきりとしているように見えた。車が走る音や、工事の足場を組み立てる音、子どもたちの話し声。そんな街の背景音に、私のパンプスがアスファルトを叩く音も溶けていった。
意識は、とにかく歩くことと、行く先の信号機が切り替わるタイミングにだけ向いていた。歩道と言えど、マンホールの蓋やひび割れで足元は凸凹だ。だけど俯いてばかりでもいられない。歩くペースが遅い、淡い藤色のコートを着た初老の女性を道幅が広くなったところを見計らって追い抜く。やたらペースが速い、パーカー姿の若い男性に追い抜かれる。前方からはブレーキが効きそうにない自転車が、車輪を軋ませながらふらふらと向かってきている。かと思えば脇道から急にタクシーが顔を出す。歩くだけでも考えることはたくさんある。
私はイヤホンを忘れてきたことに気が付き、残念に思った。別に、何か聴きたい音楽があるわけではなかったけれど。
しばらくして、車線数の多い大きな通りに出た頃、私は頭の中で一日のスケジュールを簡単に組み立てていた。……つもりだったが、いつの間にか何か他のことを考えていた。あるいは、何も考えていなかった。子どもの落書きのように思考はひとりでに取り留めもなく広がって、膨らんで、分裂して、融合して、最後には宙に浮かんで消えてしまった。体だけがペースを保ったまま、迷いなく進んでいた。視界に入ってきたもの——小さなドラッグストアの戸に何か月間も張られている「今だけポイント5倍」と印字されたチラシや、広告用のモニターの中で踊る女性アイドルグループや、道端に生まれた名もない雑草、など——を片っ端から意味もなく眼だけで追っていた。そこに何かの道しるべや、秘められた情報でも探すみたいに。
そんな時、前方の交差点の、青を知らせる音響器が鳴り止んだ。思ったよりも早い、と私は思った。そして慌てて駆けだした。予想通り、すぐに歩行者用信号は点滅を始めた。
踵が不安定だったので、足全体で着地することを意識して、普段とは違う歪なフォームで走った。すると脛の表側の筋肉が、即座に痛みを訴えだした。おまけにカバンが暴れて腰に当たり、足を出すリズムを乱していた。しかし構うことなく歩道を蹴り、そのまま横断歩道へ飛び出した。
この時ふと、私は中学生の頃、バドミントン部に入っていた時の記憶を思い出していた。
昔から私は人見知りで、学校でも静かに本を読んでばかりいたのだが、不思議といつも、そんな私に声をかけてくれる人がいた。自分から誰かを遊びに誘うことはほとんどなかったのに、なぜか誘われることは多かった。そうやって、中学生の頃も同様に、入学後ほどなくして私には何人かの友人ができた。そして彼女ら(彼ら)は、とても親しくしてくれた。理由はわからないが、私の席の周りには、いつも小さな輪ができていた。
友人の勧めで入ったバドミントン部では、2年生の秋から、みんなの指名でキャプテンを務めた。私しか適任はいないとみんなが言ってくれたのが、とても嬉しかったのを覚えている。今思うと、本当に不思議な話だ。特にバドミントンの実力が高かったわけでも、部活動に情熱を注いでいたわけでも、部員と積極的にコミュニケーションをとるようなキャラクターだったわけでもなかったのに。だけどいざキャプテンになってからは、私は多少なりともみんなを引っ張ろうと頑張っていたと思う。以前は黙々とラケットを振っていたが、掛け声を出すようになったし、練習でも掃除でも先陣を切って動くようにしていた。それは体力を消耗することではあったが、楽しさを感じていないわけでもなかった。
そう、あの時も練習で、私は列の先頭を走っていた。こんな風に、緑が広がる草原を、全力で……。
いや、おかしい。なんでバドミントン部が草原を走っているのだろう? これは、部活の練習の時の記憶ではない。
では、いつの記憶なのだろう?
そんなことを考えている間に、信号は赤に変わっていた。私は車が動きだす前に、何とか横断歩道を渡り切った。ギリギリセーフ。ギリギリアウトかもしれないが、道のこちら側にいるのだから判定はどちらでも構わない。周囲に審判もいない。
足首が靴で擦れて痛かった。少し息が切れていた。何度か大きく口で息をして、呼吸を整えた。
どうしちゃったんだろう?
なんだか頭がぼんやりとして働かない。
そう言えば、あの頃の友人たちはどうしているだろう?
記憶が正しければ、おそらく最後に連絡を取ったのは、一年以上前のことだ。最後に会ったのはそれよりも前、成人式の時だ。
今どこで、何をしているのだろう?
連絡先も、春にスマートフォンを修理に出した際に、もしかしたら消えてしまったかもしれない。
駅は人で溢れかえっていた。くたびれた顔の人たちが、海のような大きなうねりを作っている。半年が経っても、未だにこの人込みには慣れることができない。私は気おくれしてしまいそうになりながらも、急ぎ足で歩みを進めた。腕時計を見る。8時27分。急がないと。
駅には色んな人がいる。色んな音も、色んな匂いもある。スーツ姿の同じ顔をした男性たち。反響する無数の足音。汗と香水の匂い。何かのパンフレットのような紙束を持って立つ女性。改札の電子音。パンを焼く甘い香り。駅に入っていく人。駅から出ていく人。どこに向かっているのかわからない人。どこにも向かわない人。その混沌の中を縫うように、私は健気に歩いた。
人々はランダムに行き交っているかのようだが、よく見るとその中には流れがある。流れはプラットホームに近づくにつれて大きくなり、私もそんな流れに含まれていく。駅にはエントロピーもネゲントモピーもある、なんてことを考えながら、流れに乗って、プラットホームへと続く階段を昇っていった。踏み外さないように、しっかりと足元を確認して。
階段を上がると、電車から降りてきて出口に向かう人の流れと、電車に乗ろうとプラットホームの奥へと向かう人の流れがぶつかり合っていた。私は電車に乗るために、向かいから来る人たちに肩を当てられながらも、かき分けるように前へ進んだ。太陽がちょうど正面にあり、眩しかった。
そんな時だった。私は何かを一瞬だけ見た。いや、誰かを一瞬だけ見つけた。
その瞬間、無数の記憶の断片のようなものが一気に脳裏に蘇り、そして瞬く間に消えた。足は止まっていた。周りの音が、何も聞こえなかった。全ての意識が、どこか別のところにあった。
私は咄嗟に振り返った。
「まっ……」
しかしそこには人々の流れがあるだけで、誰の姿もなかった。
やがて音が戻ってきた。足音。電車の音。甲高いブレーキ音。発車のメロディー。何かのベル。駅員のアナウンス。自動音声のアナウンス。誰かの話し声。咳。欠伸。溜め息。湿った熱気。開閉するドア。流れる電光掲示板。行き交う人々。色鮮やかな街。冷たい風。眩しい日差し。いつもの朝のざわめき。
あれ? どうしちゃったんだろう……?
気が付くと、涙が零れていた。